[Serial experiments lain]はアニメ作品、ゲーム作品を同時に制作されているシリーズで1998年に作品が発表されました。
2018年になってから20周年になりますが、
良くも悪くも印象に残る作品だったため 20年経った後でも 未だに根強い人気を誇っており、
現在でも定期的にlainが話題になる程の影響力があります。
そんな[Serial experiments lain]のゲーム版はプレイしたら、第一印象が怖そうなイメージがあることから
トラウマや鬱になるレベルで精神に異常きたすのかという疑問もあると思います。
ゲーム版の[Lain]はトラウマや鬱になったりするんじゃないのか?
アニメ版の[lain]を見てから、ゲーム版のLainをプレイしており、
アニメ版とゲーム版はテーマに沿っている部分はありますが、内容は別物といって良いほどほとんど違う。
[ネタバレ注意]ゲーム版の[Lain]をプレイする前にアニメ版のLainを見た場合
ゲーム版の[Serial experiments lain]はサウンドノベルのようなゲーム性で
「lainの周りで既に起きた事実の日記、音声、会話のデータを自分の好きな順に見て登場人物の記憶を組み立てる」というもの。
ある程度ストーリーを進めていけば、次のレベルのボイス日記を聴くことができるようになっている。
ゲーム内容は学校に馴染めない主人公の 玲音が新人カウンセラーの柊子先生にカウンセリングを受け、
その経過の様子を音声データで聴いていく流れになりますが、
玲音と柊子先生のカウンセリングが段々、不穏な方向へ向かっていく展開に。
ゲーム版の[Serial experiments lain]を実際にプレイしてみて[ネタバレ注意]
ゲーム版の[Serial experiments lain]は
当作品はサイコホラー系な面もある+前評判で「ヤバいゲーム」「暗い鬱ゲー」と聞いており、
プレイする際にかなり「精神がやられてしまわぬよう」身構えていたこともあって
ゲームプレイ後は「良い作品だった。いい経験になった」と無事に終える結果に。
ルートが問題だったのか、それとも世界観にのめりこむことができなかったのか、
トラウマになることはなかったけど、多分子供の頃にこのゲームを触っていたら危なかったと思う。
あまり精神的に病まなかったのは、プレイ前にどんなものかと少しだけ[実況プレイ動画]を見てしまい予防接種していた事があるかもしれない。
ドキッ と驚いたのは
- 「放置していたらムービーが流れる」
- 「最後の最後で玲音が自分が入力した名前を呼んでくる」(1990年代のゲームにも読み上げ機能を起用をしていたとは知らなかった)
という仕組み。特に放置していたらショッキングなムービーが流れるので、ムービーにビビッてせっせとプレイしていた。
アニメ・ゲーム作品ともプレイヤー、視聴者を置いてけぼりにする作品なので、
2周目で違うルートを行ったり、考察を見て情報を補っていくことでまた新たな扉が開ける可能性はあります。
しかし、「既にアニメを見ていてどのようなテーマかわかっていた」「昔のゲームだからプレイ中 既にその道(Lain)は通っていたように感じた」など
自分が既に感じた事があったテーマ性という事もあるかもしれない。
哲学的な話題に触れている時は烈海王になって「我々が既に通過した場所だッッ」となることも。
[lain]のゲームは中盤~終盤にかけて哲学的な話題を扱いますが、
当時読んでいた夏目漱石の作品の中に「哲学をしている人は自分に酔っている」という言葉に影響されたせいもあって(今はそんなこと無い)
ゲームから心が一歩引いていたこともあった。
哲学者のニーチェの本とか仏教の本読むぐらい哲学好きだったんだけどな…
[Serial experiments lain]肉体を捨てても存在する事ができるという考え方
[lainシリーズ]は肉体は不要でデータがあれば存在出来るという考え方があり、
肉体が物理的制約になっているから人類は進化することが出来ないことを強調されています。
1990年代の時点でかなり時代を先取りした話題を扱っており 未来の世界で実現していそうな話です。
「人間の身体は20代をピークに衰えていく一方、なら肉体捨てて生きれるならそっちの方が良くない?」とも思いますが
- 「データ上に移した自分は別物になっていないのか」
- 「データを削除しない限り生き続けてしまうのか」
- 「トラブルがあった際永遠に生きてしまうのか」
と色々想像してしまいます。
哲学的なテーマなので、正解は無く 肉体を捨ててデータとして生きる考え方に関しては「うーん…未来行きてぇなぁ」という結果に。
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